選挙制度こんなんどう?

黄金の中庸よりも、二分法の直線から離れたところに実りの多い見解があるのではないか、というような事を言ったのはスティーブン・J・グールドだが、私もそれには激しく同意する。

で、選挙制度のこと。定数を是正するとか、削減するとか、参議院を廃止するとかしないとか、そういった議論も大事だろうけど、政党に投票する制度、さらには個人に投票する制度っていうのは粒度が大きすぎて、そろそろ時代に合わなくなってきているのではないか、と思ったりする。

政治活動は確かに政党や政治家が行うものだけれど、有権者が何に投票するのか、というと、政策に投票する、という方向に選挙制度も改革していくべきではないのか、と。

例えば、立候補者が、自分の公約を最大10個まで掲げて、その公約に対して投票できるようにする、というのはどうだろう?有権者は、候補者に対して投票するのではなく、自分が重要だと思う公約10個を選べる、という具合。

最終的には、得票数の多い候補者が当選するわけだけれど、同時に自分のどの公約に得票が多く、どの公約に得票が少なかったかが分かるようなしくみにすればよい。

現在の技術をもってすれば難しいことではないと思うし、候補者も自分の主張を明確にできるし、有権者も自分の意見を反映しやすくなるのではないだろうか。

これはもちろん一例だけど、根本的に、新しい「民主主義」を考え直して、いろんなアイディアを出してみるのもいいんじゃないか、と思う。

桜より梅、富士山より菜の花

日本人の多くは桜が大好きですよね。私はかなり少数派だと思うのですが、桜があまり好きではありません。満開の時期ははなやかなんだけど、なんだかうるさくて。それよりは梅のほうが好きです。清少納言は紅梅が好きだったみたいですが、私はどちらかというと白梅のほうが好き。紅梅にもとても心を動かされるのですが。

私としては、梅のほうが本来の日本的なものなのではないかと思ったりするのですが、いかがでしょうか。

あ、そうそう。桜の花びらのひとひらひとひらは好きです。集団でどばっと群れ咲いているのがあまり好きではないんです。

もうひとつ。大阪出身ということもあって、富士山にはさほどなじみがなくて、本音を言うと、多くの人がなぜそんなにありがたがるのかがよくわからないんですよ。どちらかというと、富士を背に咲いている菜の花のほうが好きなんですね。多くの人が愛でる、雪をかぶった完璧な富士山を見ても、確かに美しいとは思うんだけど、深く興味をひかれるというほどではないんです。自分でもひねくれているとは思うんですが。でも、いろんな表情を見せる富士は好きです。赤富士は特に好きですね。

結局のところ、多くの人がいい、というものを「いい」と言いたくないだけかもしれません。ホント、偏屈ですね。

蛇足ですが、古今和歌集はあまり好きではなくて、万葉集が断然好きです。

すごくかっこよくて実用的な英語の表現

銀行のATMや入国審査の列などに並んでいて、前の人の番になったにもかかわらず、機械とか窓口が空いたのに気づかないことってたまにありますよね。そんなとき、あなたなら、どう言って気づかせてあげますか?

日本語なら「空きましたよ」とかでしょうが、それを直訳するのも変だし、It’s your turn.とかいうのもなんとなく教科書っぽくてかっこよくないですよね。

「もしもし」のつもりで、Excuse me. とか軽くSorry.とか言うのもナントカのひとつ覚えっぽくてイマイチ感がありますね。

では、どう言うとかっこいいか。これは私が実際に入国審査の列でまったくそれと同じ状況で(私が気づかずにぼーっとしていて)、列の後ろで待っていたネイティブの人に言われた言葉です。それは、

Gentleman.

です。軽く語尾を上げた感じで。私は、かっちょいー、と感動したのと、慌てていたのとで、何も言葉を返せなかったのですが、いつか使ってやろうと思っています。その機会はほとんどないのですが……というのも、こういう言い方をするには、言う方もジェントルマンでないと様にならないからです。いやはや。

相手が女性なら、フランス語で、

MademoiselleかMadame

がかっこいいと思いますが、未婚か既婚か区別するのは差別だ、と言われると困りますね。

結社に入るのをためらう理由

たとえば、冷ご飯にラップをかけたものを展覧会に出展して「これが芸術だ」と私が言ったとしても、まったくといっていいほど無視されるだろう。というより、さんざんに罵倒されるだろう。だが、一流と言われる芸術家が同じものを出展したら、反応は大きく異なるはずだ。

また、たまたま同じ俳句を有名な俳人と私が作ったとしよう。仮に私のほうが先に作って発表していたとしても、たぶん私の作った句よりも有名な俳人の句のほうが高く評価されるはずだ。

現代の芸術は、誰の作品かということが重要なのはもちろんだが、それ以上に、誰が評価するかということがとても重要。芸術にも進化の系図みたいなものがあって、それらをふまえたうえで、最先端のさらに一歩先を行ったり、系図に新しい枝を書き加えることが、その作品の価値につながる。だから、それらをふまえず、たまたま、ポンと同じものを出したとしても評価されないというわけ。

デュシャンが出展するから、デュシャンを評価する人がいるから、便器が芸術になるというのと同じだ。

作品の良し悪しがすべてじゃないなんておかしい、という人もいるだろうが、そういう人は、何もわかっていないど素人だと蔑まれるのがオチ。

私は、それに異議を唱えようとする気はない。茶道でも、華道でも、柔道でも、剣道でも、型を身に付けたうえで、それを打ち破っていくのが、文字通り「型破り」なわけで、最初から無茶なことをやっても、それはただのお調子者でしかない。武道の場合だとたいていはそれでは勝てないのではっきりと分かる。

でも、俳句に関してはどうもそういう道筋をたどるのが疎ましく感じる。というのも、結社=伝統ではないからだ。結社を否定する気はないし、その中で揉まれるのは上達の近道だろうと思う。まあ、自分がそういう組織に合わないというのもあるし、打たれ弱いというのもある。けれども、自分で気づきたいのだ。近道ではないかもしれないが、師匠に指摘されて気づくのではなく、一週間後、半年後、一年後に、自分の句を読みかえして、こりゃいかんわ、と気づきたいのだ。俳句を始めた頃に

炎帝に頭を垂れる日輪草 恭烏

という句を作ったことがある。それから数年経つが、今なら、

炎帝に頭垂れたる日輪草 恭烏

という句にしただろう。さらに何年か経つとまた違う句にしたくなるかもしれないし、元の句のほうがよかった、と思うかもしれない。でも、師匠に添削されて、ハイ、ソウデスネ、とその場で納得してしまわずに、自分で気づきたいのだ。……というのは現時点での考え。もしかすると、この人に近づきたいという人が現れて結社に入るかもしれない(好きな俳人は何人かいるけど、今は、それらの人と私は違う、と思っている)。

あ、あと、全然違う話だけど「絡めとられる」ということについて書きたかったのだが、長くなるのでまたにしよう(←これは自分用メモ。忘れてしまわないように)。

対案を出せ、という人のことなど

最近思ったこと、いろいろ。

「対案を出してください」というのは一見異なる意見を認めているようだけれど、相手の口を塞ぐための方便なのかもしれない。自分がそもそも対案を考えていないか、相手の立場を重視していないからではないかと思う。本当に異なる意見を認めるのであれば「そういう視点は見落としていました。そういう思いを持つ人が納得できる案を一緒に考えてみましょう」のようになるだろう。その異なる意見を持つ人も同様なのだけど。

私は、どちらかというと、お金を使って経済回して元気になろうという考え方が好きではない(自分にお金が回ってこないのは嘆かわしいという身勝手な部分もあるけど、それは最低限のお金ってこと)。それは、資源の浪費にほかならず、子供のための食事を親が食べてしまうことだと思っている。将来にツケは残したくない。だから、もっとお金回そうぜ、という人には、こういう考え方の人もいる、ということを理解してほしい。と、同時に、私も、もっとお金回して、派手に行こうぜ、という人が大事だと思っていることを理解しないといけないと思う。なかなか難しいのだけれど、どこにどう使うとみんながうれしいのかという提案はできるのではないかと思う。

「利権」というと、いかにも腹黒いお代官様と業者の癒着を連想してしまうのだけれど、これまでの歴史の中で、業者の人たちがコツコツと築き上げてきたシステムでもあるわけなので、全否定するわけにもいかないと思っている。左方向の人はそういうのに目くじらを立てるかもしれないが(私もどちらかというと左寄りな教育を受けてきたので、そう思ったりするけれど)、労働組合の役員がたとえば就業時間内に組合活動をしたり、会社や庁舎の一部を使わせてもらったりしているのも、それと同じだと思う。「既得権」もやはりこれまでの歴史の中でコツコツと築き上げてきた労使の関係の上に成り立っているものだと思う。こちらも、全否定すべきでないと思う。

ただ、何につけ、それは「必要悪」だ、という人は、現状を変えるのが面倒で、問題から逃れたいだけの人ではないか、と思ったりする。必要悪はやっぱり悪だと思う。そういう悪を必要としないようにするにはどうすればいいのかを考えるべきだと思う。……と、きれいごとを言うのはたやすいし、私に何ができるというわけでもないのだけれど、それでもそういう思いを持っていることは大切かな、思う。

話はあちこち飛ぶ。岩波書店の採用はコネのある人のみ、というのが少し話題になっている。意図するところは、本気で入りたい人は石にかじりついてでもコネを作りなさい、そういうことのできる人に来てほしい、ということなのだと思う。でも、そうやって集まってきた人のコネって、結局内輪のコネだから、すぐに使えるかもしれないけれど、新しい展開には結びつかないのではないかと思う。まあ、コネを作ることのできる人ならどんどん外に出ることもできるだろうけど(でもそうではないかもしれない)。どうせやるなら、外にコネを持つ人を採用したほうがいいと思う。たとえば、岩波書店から著書を出していない著者とのコネ、とかね。ま、私もそういう著者にあたるのだけど、残念ながら私にコネ持っていてもあんまり役に立ちません。申し訳ない。

といったところで。

人気者になりたい?

しばらくブログを更新していなかった。最近思っていることを思い出した順に。

津田大介さんの『情報の呼吸法』が人気のようだ。グリーンズの『ソーシャルデザイン』も同時にシリーズとして発売になって、そちらも人気。ツイッターのタイムラインがこの2冊の本の感想で埋め尽くされる勢いだ。どちらも元気の出るいい本だと思う。読むならあわせて読むのがいいかと思う。

でも、ちょっと気を付けて読んだほうがいいと思う。水を差すような言い方だけど、『情報の呼吸法』を読んでも、だれも津田さんにはなれないのだから。ジョブズくんの本を読んで自分もジョブズくんみたいになれると思う人はいないと思うけど、津田さんにならなれるかも、と思ってしまう人もいるかもしれない、と心配してしまうのだ。でも、ぜったい無理。あなたはあなただから。ちっちゃい津田さんになってもしかたがないでしょー。

そのことについては、自分はたまたまこういう活動ができる状況にあった、と津田さんも言外に書いてくれている。それが彼の優しいところだろう。自分がこれ、と思ったことをやるべきとも。それが大事。そのことは、『ソーシャルデザイン』のほうに、より鮮明に描かれている。だから、両方読むとそのあたりがよくわかる。

で、ツイッターのタイムラインだけど、そういうこともあってか「人気者になりたい」という感じの人でいっぱい(私もそうありたいのだけど、残念ながら、人が寄り付かないキャラらしいので、あきらめている)。でも、人気者になる必要なんてこれっぽっちもないと思う。好きなことがあれば、ヘンに人気を取ろうとするより、それに没頭したほうがいい。100人のうち99人まで理解してくれなくても、1人が理解してくれればいい。その比率でいけば、日本の人口をざっと1億人としても、100万人もの理解者がいるのだから。

誰も反応してくれない、と思ってすぐにあきらめずに、1年ぐらい続けてみるといいと思う(って感じのことは上の本のどちらかに書いてあったような気がする)。そのうち、理解してくれる人が出てくるはず。表面的、感覚的に面白い、と思ってくれるものの、すぐに離れていく人よりも、そうやって得た理解者のほうが大事だと思う。

ま、そんなわけで、私も、左手お絵描きだの百人一首本歌取り俳句だの、たぶんほかの人からするとくだらないと思われることを(しかも技量もたいしたことがないのに)続けているわけ。私のやっていることにあまり反応する人はいないけど、だからこそ、それはホンモノになる可能性を秘めているからだ、と思っている(負け惜しみともいうけど)。でも、私はほめられて伸びるタイプなので、やっぱりほめてもらえるとうれしいし、やる気も出る。だからどんどんほめてくださいね~。……私が勘違いしない程度に。

ところで、ちょっと興味を抱いたので、去年から競馬を始めた。ツイッターにも書いたけど、ギャンブルというのは胴元が確実に儲かるシステムなので、たいていの場合、こちらは損をすることになる。ただ、競馬はほかのギャンブルと違って、かなりリスクヘッジができるので、その気になれば大損しないような賭け方もできる。馬や調教師や騎手のことが分かってくれば、もっと精度が上がって、儲けることができるようになるかもしれない。多くの情報をインプットして、自分なりに分析して……というわけなんだけど、これってジャーナリストの仕事にも似ているよね、と思った。ここで『情報の呼吸法』にまたつながるわけだけど、だれもが競馬のプロになる必要がないのと同じように、だれもがジャーナリストになるわけではないので、一生懸命情報を発信したり、入手したりする必要も必ずしもない、と私は思う。そういうことが重要になる人ももちろん多いと思うけれど、自分のスキルを高めることも大事だと思う。

まあ、私がどちらかというと、自分の手で何かを作るのが好きなタイプだからそちらに重きを置くのかもしれないけど。といっても、別に、そうでない人のことを人のフンドシで……みたいなことを言うつもりはない。オリジナリティって、これまでになかった新しいものを無から作り出すことよりも、どれだけ広く、深く影響力を与えられるかによって評価される面もあるから(ジョブズくんがいい例だと思う)。そして、そういう評価の考え方がよくないとも思わないし。

と、前回のブログ以降、そんなことをうだうだと考えていたのでした。ではまた。

経済成長という錦の御旗

経済成長しなければ不幸になる、というのは一理あると思う。不景気で自殺者が増えるのもそれゆえだ、なんとかしなくてはならない、と言われれば首肯せざるを得ない(かといって、経済成長すれば幸せになるかというのは分からない。が、それはまた別の話なのでおいておこう)。

思ったのは、経済成長を量的拡大だけの話と捉えていいのか、ということ。これまでの路線を拡大していくだけでいいんだろうか。私は、それはすでに破綻していると思う。人口の構成も変わっているし、内外の環境も変わっている。量的には縮小しても、質的に充実させることを考えてみてもいいのではないか、と思う。

じゃあ、「質的拡大」って何?と聞かれると即答できないのだけれど。

日本の伝統的な文化や、新しい文化(アニメーションなど)がキーワードになる、というのは月並みな答えだし、ITに期待できるかというと、どうも微妙な感じがする(業界の片隅に身を置く者としては、はばかられるのだけれど)。

何が軸になるのかは分からないが、これまでとは発想を変える必要があると思う。いくら数字を出されても、これまでと同じ発想での議論にはあまり乗れない、と思ったりもする。私を含め、私より年齢が上の世代は、これまでの価値観で考え方ががんじからめになっているから、答を出すのは難しいかもしれない(下の世代でも想像力に乏しい人もたくさんいるだろうが)。

そんなことを、ここ数日つらつら考えている。

新年に思うこと

思いつくままにいろいろ書いてみよう。

去年までは、私の仕事は「種まき」のようなものだと思っていた。何年か、何十年後かに花が開き、実がなればいい。期待はしていてないが、そのときに種をまいた私のことを思い出してくれれば、なおいい、と思っていた。でも、その比喩はちょっと違うかも、とも思った。種は私が持っているものではなくて、学生や読者が持っているものだから。いつか役に立った、と思ってくれればそれでいい、というのは変わらないけど。

世の中には、今を大切にしたい人と、未来を大切にしたい人がいる(私はどちらかというと後者の思いが強いかも)。明確に二分することはできないけれど、時に、それらの人たちが敵対することがある。とても残念なことだ。前者の後者に対する「現実を見ていない」という批判や、後者の前者に対する「自分さえよければいいのか」という批判は、自制すべきだと思う。全否定からは何も生まれないような気がする。

自分の魅力を高めて、他人から疎まれないように努力することはとても大切だと思う。でも、欠点のない人なんていないんだし、そういう欠点をも受け入れられる人になることはもっと大切なことだと思う。

芸術に関して。古典となりうる作品は万に1つもない(でも、ゼロではない)。で、作品の価値はそれが生まれたときに決まるものではなく、数多くの人の鑑賞に堪え、長い時間をかけて作られるものだと思う。作られたときは単なる人工物だったものが、何百年と経て付喪神が宿るかのように。

きっといろいろと考えるべきこと、なすべきことがあるだろうけど、とりあえずこれぐらいで。また、思いついたら書こうと思う。

大晦日に思ったこと

大晦日である。天下国家を論じる気はないし、ゴシップネタで現実逃避する気もないので、きわめて個人的な話になるけれど、今年一年を振り返ってみようと思う。

今年は、いろんな意味で「本性」があらわになった年ではないかと思っている。震災が(というより原発事故が)国民をバラバラにしたと言われるけれど、もともとバラバラだったのが表面化しただけではないかと思う。別にそれが嘆かわしいことだとは思わない。むしろ、これまで見ないふりをしていたことについて考える機会が得られたのだから。自分の考えと異なる考えは拒絶したくなるけれど、こういう機会だから、なぜそう考えるのかを積極的に聞きたいと思う。敵を知り、己を知れば……というけれど、実際には、敵については知りたくないという気持ちが勝ってしまって、簡単にはいかないものだ、とも思ったけれど。

「平和学」というのも考えた。人類は有史以前から戦うことばかり考えてきた。そのための知識やツールは膨大で、現在の政治や文化を支える基本的な考え方の根っこの部分にも「戦うこと」が浸透していると思う。それに対して、戦わないための知識やツールはほとんど蓄積がない。これまでの何万年、何十万年、いや何百万年かの間に築かれてきた価値観が簡単に覆るわけはないので、それに対抗するためには、これからの何万年、何十万年という時間が必要だと思う。でも、実りを得るためには、種まきをしておく必要があるのではないかと思う。自分の世代はもちろん、子や孫の世代で十分な成果があげられることはないだろう。でも、現実的でないとか理想主義だと切って捨てるべきでもないと思う。何十万年というスパンで見た現実、と捉えたい。自分の寿命程度のスパンでしかものが見られない人には理解してもらえないかもしれないが。別にいますぐ世界中を武装解除せよ、とか、現実に攻撃を受けても抵抗するなと言っているわけではないし、戦うことと競うことは別だと思っている。ただ、理想と現実の二律背反ではなく、もっともっと長いスパンで考えないといけないな、と思ったわけ。

今年だけではないけれど、ここ数年、これまで生きてきた時間よりも残り時間のほうが少なくなっているという実感を抱いている。まあ、いろんなことを経験できたので、いつ逝ってもいい、とは思っているのだけれど、残り時間が限られていると思うとかなりあせる。しかも、何をしていいか迷ってばかりで、結局何も手につかない。これをやると、あれができないんじゃないか、とか、これをやっても十分に達成できなくて終わってしまうのではないか、とか。人間五十年……というので、残りは「おまけ」だと考えていたりしたが、おまけっていうのは中途半端だな、と思った。これまでの生き方とは違う生き方をまた0からやれるんだ、と考えたほうがいいかも。おまけではなく再出発かな。とりあえず、絵を描くのは楽しい。

今年は、クルマを売って、ケーブルテレビをやめた(テレビが一切みられなくなった)。でも、困ったことは何もない。断捨離なんていうけれど、いらないものをいくら捨てても、スッキリはするだろうけど、自分の生き方は変わらないと思う。自分が一番大切だと思っているもの(思い込んでいるもの)、一番高価なものを捨てないと生き方は変えられないと思う。そうはいっても、命とか、家族とか、住処なんかを捨てるのは無理だけど(世捨て人になれば確かに生き方は変わるけれど)。

あと、細かいこといろいろ。思いつくままに/で区切って書く。ネットは年齢や性別など関係なく議論できていい、というのを考えなしに信じている人がいるけれど、私はそうは思わない。相手がどういう経験を積んできて、どういう立場で発言しているのかが分からないとちゃんとした議論はできないと思う/ツイッターで議論しても不毛だと思う/人の信念を論理で変えることはほとんど不可能だと思う。考えを整理するのに論理は役に立つが、信念を変えるには、ユーモア、物語、映像……などが必要だと思う。そういうことを来年はもっと大切にしたい/批判によって信念が変えられることもないと思う。批判することが無駄だとは思わないが、個人的には批判は提案とセットにしたい/先日、「鯛焼きは頭から食べる派?尻尾から食べる派?」という質問がFacebookであった。ほとんどの人は「頭から」とか「尻尾から」と答えるけれど、私は「腹からかぶりつく派」。既存の枠組みにとらわれない考え方は大事だと思う/ツイッターの書き込みにはいろんなスタイルがあるけれど、自慢タイプ、大喜利タイプ、自分の言葉のない公式リツイートしまくりタイプ、暴言タイプなどが苦手かな。オリジナリティとオチのあるタイプが好きだな/苦手なことで思い出したけれど、私の三大苦手は事務処理と人の話を聞くことと彼岸花。彼岸花は無理として、事務処理と人の話を聞くことは苦手克服ができればなあ、と思う。得意なことは「思いつき」。まあ、アホな思いつきが多くて、すぐに破たんするのだけど。

ほかにもいろいろあるだろうけど、また思い出したら書こう。

絵を描き始めて気がついたこと

情報処理屋さん、という職種があるのかどうか分からないけど、たぶん私はそれ屋さんだ。この関係の仕事についたときから、「一度入力したものは入力しなおさない」という鉄則を徹底的に叩きこまれた。

が、絵を描き始めると、描いては消し描いては消し……を何度も何度も繰り返しながら作品を仕上げていく必要があることがわかった。一発でビシッと決めて、決して後戻りしない、というわけにはいかない。

ウォーターフォールモデルのように後戻りしないことを絶対だと思っていた私にはまだるっこしくも新鮮で、意外にも、それがとても楽しい。まあ、ウォーターフォールモデルそのものも「後戻りしない」というのは神話なのだそうだが(提唱者は後戻りしちゃダメなんてひとことも言ってないそうで)。アジャイルってわけでもないけれど、絵を描くときのやり方もいいな、と思うようになった。

もっと絵が上手くなれば後戻りも少なくなるかもしれないけど。

でも、よく考えてみると、それは決して後戻りではなくて、後戻りに見えるけれどスパイラル的に前に(上に)進んでいるのかもしれない。文章を書くのも同じで、以前は頭の中で構成やらなにやら組み立てて、一発で決めるという書き方に近かったのだけれど、最近は、かなりラフな文章から少しずつブラッシュアップするという書き方に変わりつつある。まあ、文芸屋さんじゃないから、味のある文章はなかなか書けないのだけれど。